note過去記事(2023/10/9)
ご挨拶
7月に入ってすぐの日曜日にこの文章を書き始めた。締め切りに追われ続けていた仕事が幾許の落ち着きを見せ、久しぶりに仕事のことを忘れて過ごせる週末のことだった。
いつもその日に書き終える気概で筆を取るけれども、この文章は随分気長に書く形になった。
締め切りに追われる日々は7月で終わり、その後は通常運転に戻った。久しぶりに窮地に追い込まれる経験をしたように思う。自分にとって大切なことは何か、待った無しで問われる日々だった。
そのような日々の中で経験した出来事や感情は、真に迫るものが多かった。
ここでは詳細を割愛するとしても、この期間を経たことは自分にとっては大きいことだった。無私の心で助けてくれたチームメンバーや同僚には本当に感謝だ。
また、今の仕事における自分の技術がある程度確立されていることを認識する局面もあり、今後自分の持っているものは積極的に後継していくことを心に決めた。
しかし、私にとって今の仕事は苟且(かりそめ)だった。遠く無い未来に卒業することは初めから心に決めていた。私がいずれ去りゆくことは、明言を避けていても、関係各位の無意識下で認識されているようにも思う。事実、勤め先で私に与えられている権限は多く無い。それだけが原因ではないけれども。
苟且とは言っても、私は今の仕事がまともに出来るようになるまで随分時間を要した。そのうえ技術や概念のアップデートが早く、高い適性やモチベーションを持つ人が活躍する分野の仕事だ。継続的な研鑽が必要とされている。
目の前の現実を良くするため、私も持ち帰り仕事や研鑽に精を出した時期もあった。だけど精を出すほど、抽象的で、現実逃避的で、他力本願的な夢が膨らんだ。「正しいことをしていればいつか報われる」という言い伝えに賭けているかのようだった。
人間の正しい正しくないという基準は、相対的かつ流動的で、己の外側に決定権があるように思う。このような基準を軸に生きることは、自分の人生を生きていると言えるだろうか。私は自分の人生を生きてゆきたいと強く思った。だからある時腹を決め、オフの時間は自分のために使うことにした。
とはいえ今の仕事があっての生活で、その先の夢で。いかなる夢も、目の前の現実と向き合うことなくして、真の実現は成し得ないと思う。
私も目の前の現実と向き合うようになるほど、いざという時に一肌脱ぐような覚悟が強められた。またオンの時間は、己の持ちうるもの《知恵・意欲・アイデア・行動・思い・・》を出来る限り捧げると誓うようになった。
いずれ去りゆくと思えば、一つ一つの出来事が思い出作りのようで尊く感じられる。嫌なことも少し時が経てば尊くなる。何よりこうした文章が書けることは、勤め先での様々な経験や学びがあってのことだから、この先もずっと感謝をしていきたいし、真摯な思いでいたい。
人に与えられている時間は有るようで無い。いつかの時を待ち詫びながら日々をやり過ごしても、その時は来ないのかもしれない。本当に望むなら、自らそこに向かって行くだけだ。
世に出していく意志のもと、謙虚な文章を書いてゆきたい。
私と屈折
過去に何度かお伝えさせて貰った通り、私の人生はこれまでスタンダードから外れ、おおよそ脇道を屈折した気持ちで生きて来た。
屈折のあまり、世界や人への希望を失い、おおよそ全てを否定しながら生きた時期もあった。極めて独善的にもなった。その時期は自分が認めたものしか認めることが出来なかった。
途方もない劣等感も抱いていたから、否定することで自分を保とうとしていた側面もあった。明るい世界を直視することが出来なかった。
自分自身と、自分の現状に対して劣等感を抱いていた。「自分は変わらなければならない」「自分を向上させなければ私は幸せになれない」と、いつも自分を追い込んでいた。
己の人間的未熟さと、運命の筋書きと、全体の流れのようなものの相乗効果で、今の勤め先に入社してからは非常に過酷な体験が続いた。
過酷な体験によって、新しいトラウマが形成された。「自分の言動は間違っているのではないか」「また糾弾されるのではないか」と怯えながら過ごした。そもそも当時の会社に求められた仕事が、当時の私には出来なかった。
生きることの辛さを抱えたまま、とにかく糾弾されないように仕事を回そうとした。自分の理想とは違う世界で、どうしたら良いのかも分からぬまま、誰にも守られずに懸命に動いた。無理に無理を重ねることもあった。
こうした頑張りが報われるなら良かった?かもしれないけれど、ことごとく裏腹な結果となり、恐れていた厳しい糾弾を受けては、心が粉々に砕け散った。
そうして心はいっそう狭くなっていった。おおよそ全ての事柄が気に入らなくなった。満たされない心は、他人の在り方を否定することで満たした。普通に生きている人たちを見返してやりたいという思いで生きていた。
このような時期に私は多種多様なネガティブ思考を極化させ、それによって引き起こされる現実的な出来事を体験した。しかしこの世界はよく出来ているもので、引き起こされた出来事を通して、私は抜本的に考え方や認識を変えていく運びとなった。
出来事の渦中では、とてつもなく大きい感情に見舞われた。酷く思い詰めて絶望したり、特定の人に対して激しい憎悪を抱いた。それまでの人生で味わって来た感情とは桁が違ったので、最初はどうやり過ごしたら良いのかまったく分からなかった。
しかし百度そのような体験をするうちに、次第にやり過ごせるようになった。この時期はYouTubeで人の話を浴びるように聞いた。考え方や認識が変わるためには、既存のものが一度壊れる必要がある。それはとても苦しいことではあるけれど、喉元を過ぎれば、自分にとって必要な体験だったと思うことが出来る。
とはいえそういった体験は出来る限り避けたいため、事前に手を打つようにもなった。後々問題になる事柄は不安などで予感されるから、見逃すことなく手を打つというだけなのだけれども、それには状況に流されず行動に移す胆力が必要だと思う。
ここまで読んでくださった方のために、このあたりで少しギフトのような話をしたい。出来事の渦中、あまりの苦しさにやり切れず、祈ることしか出来ない時もあった。その祈りは時間差はあったとしても、おおよそ全てが聞き届けられた。
苦しみの原因が取り除かれたり、気持ちを分かって貰えたり、真実に到達して苦しみを克服するなどした。想像を超える出来事も起きた。大きな流れが変わることもあった。いずれにしてももたらされた出来事には心から感謝の気持ちが湧いた。尊過ぎるあまりに嗚咽することもあった。
「求めよさらば与えられん」という言葉は本当だと思う。初めから諦めずにちゃんと求める。無意識に求めていることを明確にして意識的に求める。求めた結果が得られなかったら・・という恐れが先立つかもしれないけれど、めげずに都度求め直してゆくならば、必ず求めたものが与えられる時は訪れると思う。観測を続けることで、結果など変えていけるから。
こうして私は、この世界や人という存在への希望を取り戻していった。
辛い時期は昨年の4月頃をもって終息したように思う。ただ、自分自身の根底には未だ拭い切れない悲しみや寂しさが存在していた。存在が限りなく小さく感じられることもある。しかし時に拡大し、気持ちや思考を覆い尽くすこともある。この文章を書き始めた前日がそうだった。
その日はひどく塞ぎ込んだ。自分自身の根底にあるものと、どうしようもない本心と向き合わざるを得なかった。日中ある程度の活動はしたけれどもずっと悲しくて、日が暮れてからは横たわって一人で泣いた。それでもやり過ごせたような瞬間は来て、根底にあるものも、どうしようもない本心も抱えたまま、気を取り直して歩いて行こうと思うに至った。
自分自身の方向性も、陽に転じていることは確かである。